アユについて(1)   update: 01Feb2010
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鮎について昔はどう見られてきたのか,また釣りは何時頃から始まったのかという興味から古い本を調べてみました。

本朝食鑑(ほんちょうしょくかん)』をみると以下の様に表現されています。


細鱗魚,年魚,阿喩『日本書紀』。銀口魚『漢語抄』。鱫鱜(あいきょう)()壒囊抄(あいのしょう)』。
日本の鮎は中国ではナマズを指すそうです。

箋注倭名類聚抄(せんちゅうわみょうるいじゅしょう)』によると,貌は鱒に似て小さく白皮で鱗が無い。春に生まれて夏成長し,秋衰え冬死ぬ。これを年魚というとあります。*1
鱗は無いとあるけど,実際には小さい鱗があります。

肉は薄くて潔白で生臭くなく味は極めて良い。また頭から背にかけて脂がありその味が最も佳いとあります。鮎はどこでも獲れ,濃・尾州の鮎が上品とされていて紀州ものがこれに次ぐそうだとか。肉は五臓を丈夫にし,筋骨を強くし,諸病に用いて悪いということがない... とあります。
鮨は尾張・美濃のが上品とされ,尾州の鮓は絶勝で,九月には内子鮓がありこれも抜群とあります。紀州では釣瓶(つるべ)鮓というのがあり,これは若い時期のものだとか。上都・関西・尾張・美濃の鮓は魚の鰭骨は軟らかく脂があり味は勝れている。東国の鮎は鰭骨が堅硬で味はよくないそうだとか。
ウルカは瀉痢腹痛を止め,虫を殺し,能く酒毒を解する。あるいは,腸風下血を治すという。『本朝食鑑』より

『大和本草巻之十三』では鰷魚(あゆ)といい,「鮎ヲアユトヨムモ誤也。鮎ハ諸書ヲ考ルニナマツナリ。日本紀神功皇后紀二細鱗魚ヲアユトヨメリ」とアユのよみ方を述べている。また「豊後國早見郡立石村ノ淺見川ノ鰷ハ冬ニ至ルマテ下ラスサヒス。其川ニ温泉イテヽ水温ナル故ナルヘシ。」と興味深いことが書かれています。


鮎釣り
鮎釣りが出てくる書籍では『古事記』*2,『日本書紀卷第九』*3が古いようです。
それによると,神功皇后(じんぐうこうごう)が肥前松浦の玉島里の小河で鈎を作って飯粒を餌にして裳の糸を抜きとって釣り糸にして,河の中の石の上に登って鈎を投げ込んで,戦運(新羅国?征伐)を占って竿を挙げたら細鱗魚(あゆ)が獲れた。この時皇后は「希見(めづら)しき物なり」といい,その後梅豆羅国(めづらのくに)というようになったそうです。今はそれが(なま)って松浦(まつら)といっています。その国の女人は毎年四月上旬に鈎を河中に投げて年魚(あゆ)を獲るようになり今に続いており,男夫には釣っても獲れないそうだとか。

紙幣(政府紙幣を含む)で女性の肖像が採用されたのは神功皇后像が初めてだとか。「明治通宝」の偽造対策として発行された改造紙幣であり一円,五円,十円券の3種類あります。(1881年(明治14年)~1883年(同14年))
http://www.boj.or.jp/type/exp/bn/data/are02m.pdf

神功皇后(生誕地は滋賀県米原市顔戸(ごうど)とされる)が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだ地が宇美(うみ)八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町宇美)だそうです。神功皇后陵(五社神古墳)は奈良県奈良市にあります。

神功皇后生誕地(滋賀県米原市顔戸(ごうど)
看板にはブロンズ像,息長宿祢王が抱いている子が息長足媛命(神功皇后)とあります。
「古事記」では息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと),「日本書紀」では氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)となっています。
(撮影日:2008-03-23)

「宇美」の地名は「産み」に由来するもので安産の神として信仰されています。
「渡筑紫國,其御子者阿禮坐。故,號其御子生地謂宇美也」『古事記』より
「十二月戊戌朔辛亥,生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處曰宇瀰也。」『日本書紀』より

八幡宮総本宮は「宇佐(うさ)神宮」(大分県宇佐市南宇佐),その祖宮が「(こも)神社」(大分県中津市大字大貞)とされています。

宇美八幡宮
子安の木 子安の石 子安の石 湯蓋の森 衣掛の森
「神功皇后三韓より御凱旋後蚊田の里に産殿を営ませ給ひ(えんじゅ)の枝を折りて之に取りすがらせ給ひて安々と御安産ましましける其枝を逆に地にさしありしもの次第に生茂れり其の当時の木は変り居るも其子を絶さず其処も変えずに今あり」『宇美八幡宮参拝の栞』より
子安の石の所で神功皇后が応神天皇を抱いてる像がある。
(撮影日:2008-05-06)

…etc。 と細鱗魚からいろんな関係が出てきてしまいました。卑弥呼=神功皇后を想像させるような表現が『日本書紀』にあるけど,これは『魏志倭人伝』などとの整合性から否定されているようです。
「鮎」という字は魚釣りで戦運を占ったところからきたのでしょうか,どうもそんな気がします。
この神功皇后の話はいろんな所で出てきて驚きですがいろんな想像が出来てむしろ面白いですね。

玉島神社・神功御立石・玉島川
玉島神社 神功御立石 神功御立石 玉島川
「祭神ハ人皇拾四代仲哀天皇ノ御后ニ座シテ神功皇后聖母大明神子安神トモ申シ奉ル,古記ニ依レバ,皇后三韓御征伐ノ時松浦縣玉島ノ里ニ至リマシテ小川ノ中ノ紫石ニ降リ立チ給ヒ,天神地祗ニ外征ノ事ヲ祈リ若シ事生ラバ年魚之ヲ飮メト金ノ素針ヲ河中ニ投ジ給フニ,忽チカゝレリ。皇后希見物ト宣フ故ニ此地ヲ『メヅラ』ト云フ則チ川岸ノ玉島山ニ皇后ノ宮ヲ安置シ奉ル是當社鎭坐ノ創ナリ。」『玉島神社參拜ノ栞』より
(撮影日:2008-05-06)


 大正~昭和初期頃の釣り風景
 唐津遊覧写真集・玉島川より 写真提供:山内薬局様

皇后が釣りをされた河は松浦(佐賀県唐津市)の玉島川と考えられ,皇后が登ったとされる石が「御立石」とされ川沿いにあるとか。ただ『東松浦郡史』や『唐津松浦潟』では「紫臺石」とあり,川底に埋まって見えないとされています。
釣竿を埋めたところ竹が生えたという「神功皇后釣竿竹」が「須磨寺」(兵庫県)に,「神功皇后釣竿の竹」が「生田神社」(兵庫県)に,また「玉島神社」(佐賀県)にもあります。
しかし,『東松浦郡史』や『唐津松浦潟』では違った表現となっています。
玉島川の鮎に限り唇金色と言っている様です。

東松浦郡史』には下記の様にあります。
「金の素針を入れ給ひ鮎を釣り給ふに,忽ちかゝれり,此の素針にて釣り給ひしことは神秘なりとかや,釣竿は攝州播州の堺なる幹竹といふ竹なり,今に生田須磨邊に釣竿竹とてあり,此の金の素鈎にかゝりし因縁にて此の玉島川の鮎にかぎり唇金色なりと謂ひ傳ふ。其の節皇后の上り給ひし石を,紫臺石といふ,今は川底に埋みて見えず,川岸の上に玉島山といふ所あり,則ち皇后の宮を安置し奉り聖母大明神と称し奉るなり。また干珠満珠の山とて二あり,此の山の隣るところに加茂某といふ隠者あり,常に語りていふ,我住所の前に細き土橋あり,溝川なり,前は往還なり,適々大地震と外々騒ぐことあるとき,此の玉島山には地震を知らず,故に此の家に生れたるもの地震を知らずと,其の天理如何と笑談せり,これも御神徳なるべし。」

唐津松浦潟』では下記の様にあります。
「當時釣竿に用ひ給ひし竹は此の丘上に取りしものにて,今猶其の竹種杜 域内に一叢となつて残ってゐる。又摂州播州の境にある韓竹といへるものも其種顛で,生田,須磨の地方にては釣竿竹として用ひられ てゐるといふ。此の川の鮎の唇金色なるは,金の針を鉤げて鉤となし釣り給ひしによるとか,仲々理屈をつけたものである。
皇后の立ち給ひし石を紫臺石といふ。今は河底に没して見江ず。」

神功皇后釣竿竹
須磨寺 須磨寺 生田神社 生田神社 玉島神社
須磨寺の竹はオナゴ竹,生田神社の竹はオトコ竹,玉島神社の竹はオナゴ竹と種類が異なっていました。
「釣竿竹
拜殿ノ西側ニ繁茂セルハ皇后ノ釣シ給ヘル釣竿竹ナリ
姙婦ニコノ笹ノ葉ヲ飮マシメ安産ヲ祈ル
又皇后ミゴモラセ給ヒシカバ腹帶ヲ卷キテ三韓御征伐ノ事終ル迄『ナ生レ給ヒソ』ト祈ビ給ヒシ古事ニ倣ヒテ腹帶ヲ乞ヒテ姙婦ニ卷カシメ安産ヲ祈ルモノ多シ」『玉島神社參拜ノ栞』より
(撮影日:2008-03-15,2008-05-06)

現在,唐津観光協会などでつくる実行委員会が毎年玉島川河川敷で「鮎祭り」が開かれている様です。

玉島川ライブカメラ: http://www.city.karatsu.lg.jp/kouhou/sightseeing/live/out_camera_nanayama_a.html
玉島川: 6月15日解禁 日券1,000円 年券5,000円(玉島川漁協,七山漁協)

この年魚と松浦は『万葉集』でも見られますね。
 --- 略 ---
   蓬客等(おのれ)()た贈れる歌三首
松浦(まつら)河河の瀬耀(せひか)年魚(あゆ)釣ると立たせる妹が()裾沾(すそぬ)れぬ
松浦(まつら)なる玉島川に年魚釣ると立たせる兒等(こら)家路(いへぢ)知らずも
遠津人(とほつひと)松浦の川に若年魚釣(わかゆつ)る妹が(たもと)(われ)こそまかめ
   娘等更た(こた)ふる歌三首
芳年魚(わかゆ)()る松浦の川波の普通(なみ)にし()はば(われ)戀ひめやも
()れば我家(わぎへ)の里の川門(かはど)には年魚兒(あゆこ)(はし)る君待ち兼ねて
松浦川七瀬(ななせ)(よど)はよどむとも(われ)はよどまず君をし待たむ
   後人追いて詠める詩三首(都帥老)
松浦(まつら)川河の()早み(くれなゐ)()の裾()れて年魚(あゆ)釣るらむか
人皆(ひとみな)の見らむ松浦の玉島を見ずてや(われ)は戀ひつつ居らむ
松浦川玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹等(いもら)を見らむ人の(とも)しさ
 --- 略 ---


京都祇園祭(占出山(うらでやま)(撮影日:2008-07-15)
他に,京都の祇園祭では「占出山(うらでやま)」というものがあって別名「鮎釣山(あゆつりやま)」ともいわれており,由来は先に挙げた「日本書紀」に出てくる神功皇后の鮎釣りの話だそうです。この祇園祭の宵山に限定して占出山(錦小路通室町東入ル)で販売される「吉兆あゆ」という和菓子があります。

『 「鮎釣山」ともいう。神功皇后が肥前国松浦川で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話による。御神体(人形)は金の烏帽子に太刀をはき,右手に釣竿,左手に釣り上げた鮎を持って立つ。神功皇后は古くから安産の神として祀られ,山鉾巡行のくじ順が早いとその年は御産が軽いといわれる。安産の神として公家の信仰も厚く女院や公卿の姫君などから寄進された小袖や打掛,水干などが多数御神体衣装として保存されている。水引は三十六歌仙図の刺繍,前掛,胴掛は日本三景の綴錦で天保二年(一八三一)の製作で,奥川米厳の松島図下絵は別に保存されている。見送には花鳥竜文の綴錦が用いられ,宵山には安産の御守りと腹帯とが授与される。 』 『占出山の駒札より』


友釣り

 昭和初期頃の友釣り風景(千曲川)
 改造社「釣の本」佐藤垢石著より
次に,友釣りに関する記述は『本朝食鑑』にあります。
それによると,(きょうと)の八瀬の人が長い馬尾(ばす)におとりの鮎を結んで川に投げ入れて近づいてきた鮎を(ひつか)けて釣り,上手な人は1日に5・60尾も獲るとあります。
他には,静岡の大井川辺りでは蠅を喜んで食べるということで,馬尾(ばす)で蠅の頭を作って鮎を騙して釣るそうだが,上手な人でないと釣れず熟練の人も少ないとあり,今でいうドブ釣りかテンカラの様なものなのか?
愛媛の大津では細い縄で鮎を引っ掛けて釣るという,これは今のゴロ引きのことなのでしょうか?
少なくとも元禄の頃には現代の釣りに近いやり方で獲っていたことが想像できます。

1832年頃,夏から秋まで友釣という新しい釣漁で運上に影響が出てたが,簗漁をやっている村々からの訴えで釣漁差留して頂いたことによる礼状『頼書一札之事』*4や1854年頃には,安部川で最近,鮎友釣という鮎漁が流行し農業をせず釣りや見物して,農業の妨げとなっているので鮎友釣の差留の要望書『乍恐以書付奉願上候』*5など各地の古文書に「友釣」という文字が見られます。

『加藤寛斎随筆』(1782~1866年)には,「鮎のをとり釣 川々にて鮎を釣に,をとり釣と云事を工風して,生たる鮎を一ツ,鼻を釣針をさして,針の側に是を溺かせ,針ハ四ツ五ツをたれて水中ニ設入て,棹を持て魚の懸るをまち,魚友を慕ひ,群来りて針に摺りて遊ぶ時針貫る也 針ハ木綿針,或ハ指針を曲て手ニ付ル,至てよく釣ると云,」と仕掛けについて詳しく書かれています。

本屋で偶然見つけた井伏鱒二(いぶせますじ)の『川釣り(かわづり)』をみると,鮎釣りのことが書かれている。友釣りもされてたようで先生は佐藤垢石(さとうこうせき)(『水垢を凝視す』『香気の尊さ』『香魚と水質』『香魚の讃』『利根の尺鮎』『』等がある)とあります。
「垢石翁は私の釣りの先生である。もう十何年前に,私は富士川の十島(とおしま)で垢石翁から鮎の友釣りの手ほどきを受けた。」『手習草子』より 


簗漁・鵜飼
「古事記」「日本書紀」には神武天皇(じんむてんわう)神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))の頃,奈良県吉野川で簗・鵜飼が行われていたことが判ります。恐らくアユを獲られていたものと思われます。

「故隨其敎覺,從其八咫烏之後幸行者,吉野河尻時,作筌有取魚人。爾天神御子,問汝者誰也,答曰僕者國神,名謂贄持之子。此者阿陀之鵜養之祖。」 『古事記』より

「天皇問之曰,汝何人。對曰,臣是磐排別之子。排別,此云飫時和句。此則吉野國樔部始祖也。及縁水西行,亦有作梁取魚者。梁,此云揶奈。天皇問之。對曰,臣是苞苴擔之子。苞苴擔,此云珥倍毛菟。此則阿太養鸕部始祖也。」 『日本書紀』より


他に『日本書紀卷第廿七』の天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)(天智天皇)で「癸酉,殯于新宮。于時,童謡曰,美曳之弩能,曳之弩能阿喩,阿喩挙曾播,施麻倍母曳岐,愛倶流之衛,奈疑能母縢,制利能母縢,阿例播倶流之衛。」とあり,吉野といえば鮎だったのでしょうか?後の壬申の乱と関係する歌なのでしょうか?




*1 
『箋注倭名類聚抄』巻第八 龍魚部 龍魚類
崔禹食經云,貌似鱒而小,有白皮,無鱗,春生夏長秋衰冬死,故名年魚也,

*2 
『古事記』
亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而,御食其河邊之時,當四月之上旬。爾坐其河中之礒,拔取御裳之糸,以飯粒爲餌,釣其河之年魚。 其河名謂小河,亦其礒名謂勝門比賣也。 故,四月上旬之時,女人拔裳糸,以粒爲餌,釣年魚,至于今不絶也。

*3 
『日本書紀』卷第九 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) 神功皇后
夏四月壬寅朔甲辰北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側於是皇后勾針爲鈎取粒爲餌抽取裳系爲緡登河中石上而投鈎祈之曰朕西欲求財國若有成事者河魚飮鈎因以舉竿乃獲細鱗魚時皇后曰希見物也 希見此云梅豆邏志 故時人号其處曰梅豆羅國今謂松浦訛焉是以其國女人毎當四月上旬以投鈎河中捕年魚於今不絶唯男夫雖鈎以不能獲魚 

*4
『頼書一札之事』 (宮芝古文書同好会解読より全文引用)
一田方松野大見簗附村々より
 御頼申上候ハ,天野村川筋
 於堰所,二月上旬より三月迄
 少鮎釣漁仕,引続夏より秋迄
 友釣と唱候新規之釣漁仕,
 中々夥敷儀ニ而,簗附村々
 既ニ御運上ニも相拘り候義ニ付,
 其御村方相願,前書釣漁
 御差留之義,韮山 御役所江
 御願立,則御触流頂戴仕,
 早速御差留ニ相成候段
 一統難有仕合奉存候,然上者
 右一条ニ付,如何様成義到来
 致候共,諸入用者勿論何事
 成共、其御村方案内次第、差
 支無之様村々一同急度
 取計可申候,為後日連印
 一札差出申候,仍而如件
  天保三辰五月日
       大仁村
       熊坂村
       小立野村
       日向村
       加殿村
       上白岩村
       関野村
       梅本村
       月ケ瀬村
    武右衛門殿
    源蔵殿
    村々役人衆中

*5
『乍恐以書付奉願上候』 (宮芝古文書同好会解読より全文引用)
安倍山中外三拾五ヶ村役人惣代門屋村名主惣左衛門外五人
奉申上候,私共村々之儀者安倍川附之村方ニ御座候処,近来鮎友釣
と唱,鮎漁流行いたし,農業ニ罷出候者共見物等いたし,日々農
業之妨ニ相成候間, 池田岩之丞様御支配右友釣差留之段
奉願上候処,早速御聞済被成下御触流し被下置候ニ付,其節より暫之間差
留り候処,又々追々流行いたし,当時ニ而者村々若者共者勿論,其外
心得違之者共農業打捨,友釣而已渡世同様ニいたし候者共
有之,何れ厳敷差留候而も村々多人数之義ニ付,行届キ
不申候之間,無拠奉願上候,何卒格別之御慈悲を以,
右鮎友釣御差留御触流し被下置候様奉願上候,依之此趣
乍恐以書付奉願上候,以上
  嘉永七寅年七月         安倍山中三拾六ヶ村
                        惣代
                        門屋村名主 惣左衛門
                        松の村名主 五郎左衛門
                        油島村名主 佐左衛門
                        蕨野村名主 与作
                        横山村名主 源兵衛ヵ
                        桂山村組頭 角左衛門
     紺屋町御役所





関連ページ:
外部リンク:
参考文献:
  • アユと日本人,秋道智彌,丸善株式会社
  • 本朝食鑑3,人見必大・島田勇雄,株式会社平凡社
  • 古事記,倉野憲司,株式会社岩波書店
  • 日本書紀(二),坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋,株式会社岩波書店
  • 釣の本,佐藤垢石,改造社
  • 近世史料Ⅳ 加藤寛斎随筆,茨城県史編さん近世史第1部会,茨城県
  • 川釣り,井伏鱒二,株式会社岩波書店