玉島神社(佐賀県唐津市)  MAP         11May2008

 



玉島神社 玉島神社 神功御立石 釣竿竹 玉島川

古事記・日本書紀で神功皇后が戦運を占った場所とされ,鮎の川としても良く知られています。玉島神社に「玉島神社參拜の栞」があったので参拝し栞を頂きました。
それには,拝殿の西側に茂っている竹は神功皇后が釣りをされた釣竿竹で,妊婦に笹の葉を飲ませて安産を祈るそうです。また,皇后が腹帯を巻いて三韓御征伐が終わるまで祈るという古事に倣って,腹帯を妊婦に巻かせて安産を祈る人も多いとあります。

玉島神社參拜ノ栞

東松浦郡玉島村大字南山鎭坐

一、祭神及由緒
息長足姫命
祭神ハ人皇拾四代仲哀天皇ノ御后ニ座シテ神功皇后聖母大明神子安神トモ申シ奉ル、古記ニ依レバ、皇后三韓御征伐ノ時松浦縣玉島ノ里ニ至リマシテ小川ノ中ノ紫石ニ降リ立チ給ヒ、天神地祗ニ外征ノ事ヲ祈リ若シ事生ラバ年魚之ヲ飮メト金ノ素針ヲ河中ニ投ジ給フニ、忽チカゝレリ。皇后希見物ト宣フ故ニ此地ヲ『メヅラ』ト云フ則チ川岸ノ玉島山ニ皇后ノ宮ヲ安置シ奉ル是當社鎭坐ノ創ナリ。

二、創建年代
人皇二十八代宣化天皇御宇(一千三百九十年前)
別録綠起ニ人皇三十代欽明天皇御宇二十四年

三、攝社
須賀神社、祭神素盞鳴命外御九座
明治四十一年三月宮地岳神祭外五社ヲ合祀ス

四、祭典
例祭九月二十七日、放生會舊八月十四日 十五日
祈年祭、新嘗祭不定、中小祭略

五、實物
一、太刀一口、國實指定
銘曰備州長船家助應永二十一年二月日
長サ貳尺四寸貳分、幅壹寸、重ネ三分反リ壹寸五リ厘刄文ハ乱ニシテ表棒樋下ニ眞劍卷龍(倶利加羅)裏ニ棒樋下ニ梵字連座ノ彫物アリ
右大正九年古社寺保存會委員松平子爵ノ調査鑑定ニ依リ全
九年四月十五日、文部省告示第二六○號ヲ以テ國實ニ指定

二、太刀一口
銘曰肥州唐津住高田河内守源本行(土井侯刀鍛冶)
元文二年十二月吉日梅豆羅卿以玉島川清水淬之
長三尺五分匁渡八分

一、勾玉三連、靑綠深藍色二二個
傳來不詳古來ヨリノ社實

一、耳環古代金棒状長三寸五分

一、額面神功皇后宮(表)
唐津藩主土井大炊頭源利實書並献(裏)

一、印札神功御立石 表
唐津藩主土井侯ノ時社前ノ紫石ニ立チシ印札ニシテ、土井利實公ノ書ナリ

六、建造物
一、本殿 流造銅葺 藩主土井侯ノ建立ニシテ
棟札ニ
 國家安平享保廿一丙辰歳  久米勢兵衛貞固
奉建立 土井大炊頭源利實 奉行加藤五郎兵衛ト商
 武運長久 三月下旬  服部五郎兵衛直貞

七、特殊ナル神事及傳説
一、放生會(舊八月十四日、十五日)祭ニハ藩政時代唐津藩主嚴原藩主ノ代參ノ事アリ御茶屋ト稱シテ小屋ヲ設ケ代參ノ餐應所トナセシ古事ヲ經續セリ
尚當日氏子ノ靑年等年魚(鮎)ヲ祭典中神前ニ献シ式終リテ川ニ放ツ

一、釣竿竹
拜殿ノ西側ニ繁茂セルハ皇后ノ釣シ給ヘル釣竿竹ナリ
姙婦ニコノ笹ノ葉ヲ飮マシメ安産ヲ祈ル
又皇后ミゴモラセ給ヒシカバ腹帶ヲ卷キテ三韓御征伐ノ事終ル迄『ナ生レ給ヒソ』ト祈ビ給ヒシ古事ニ倣ヒテ腹帶ヲ乞ヒテ姙婦ニ卷カシメ安産ヲ祈ルモノ多シ

一、玉島川
 山上憶良
人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてやわれはこひつゝをらむ
奈良朝時代ヨリ公卿繒紳ノ憧ノ情ヲ送リシ所幾多史實傳説ヲ秘メテ社前ヲ流ル、又鮎ノ名所トシテ其名高シ
 詩ト玉島
余以暫往松浦縣逍遙聊臨玉島之譚遊覧忽値釣魚女子等也花容無雙光儀無匹開柳葉於眉中發桃花於頬上竟氣凌雲風流絶世僕問日誰郷誰家兒等苦疑神仙于娘等皆咲答曰兒等者漁夫舍兒草菴之微者無郷無家何足稱云唯性便水復心樂山或臨洛浦而徒羨王魚乍臥巫峽以空望烟霞今以邂逅相遇貴客不勝感應輙陳欸曲而今而後豈可非偕老哉下官對曰唯々敬奉芳命于時日落山西驪馬將去遂申懐抱因贈詠歌曰(萬葉集卷五)
 漁する海人の兒等と人はいへど見るにしら江ぬ良人の子と
  答ふる詩に曰く
 玉島の此川上に家はあれど君を耻しみ顯さずありき
  蓬客等更に贈れる歌
 松浦河河の瀨光り年魚釣ると立たせる妹が裳の裾ぬれぬ
 松浦なる玉島河に年魚釣ると立たせる子等が家路知らずも
 遠つ人松浦の河に若年魚釣る妹が袂を我こそ纒かめ
  娘子等更に報ふる歌三首
 若年魚釣る松浦の河の河波の竝にし思はば我戀ひめやも
 春されば我家の里の河門には年魚兒さ走る君待ち難に
 松浦河七瀨の淀は澱むともわれはよどまず君をし待たむ


 玉島の由来
珠島と云ふは、皇后三韓征伐の役に向ひ給ふ時、千珠満珠の二宝を海人に得給ひ、暫く此の地に秘藏し置き給ふ故に珠島と曰ふ。
「玉島神社參拜の栞 玉島神社社務所 」より全文引用


御立(みた)たしの石の伝説

御立(みた)たしの石の伝説 この石は、御立(みた)たしの石(垂綸石(すいりんせき)とか紫台石(しだいせき))といわれ、古典である記紀(きき)万葉(まんよう)風土記(ふどき)等にも記されている。 四世紀後半における。記紀(きき)神功皇后(じんぐうこうごう)新羅征討(しらぎせいとう)として伝えられているが、それによれば、神后九年夏四月、火前国松浦県玉島里(ひぜんのくに まつらのあがた たましまのさと)の小河のほとりで神功皇后(じんぐうこうごう)が、食事をなされた時、この岩の下に群がる鮎をごらんになり、針をまげて釣り針をつくり、飯粒を(えさ)とし、着物の(すそ)の糸を()いて、釣り糸にし河中の石の上にあがって、釣り針を投げ「この度の(いく)さ我に勝利あらば、このはりを()め、我に利なければ呑むなかれ」と吉凶(きっきょう)(うらな)われた。ところが糸を投げられると鮎がかかったので皇后は「これはめづらしい」と(おお)せられた。そこで梅豆羅国(めづらのくに)といったが、今はなまって松浦(まつら)という。 その時お立ちになってお釣りになった岩が御立(みた)たしの石である。 又、つり竿として使われた時の竹を()して根づいた竹むらが今も玉島神社、社域に残っている。
「昭和六十年七月 玉島町 」より全文引用




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